『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ』

世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ: エル・システマの奇跡

世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ: エル・システマの奇跡

南米ベネズエラといえば、反米主義のウゴ・チャベス元大統領、石油、野球などが思いつく程度で、あまり日本人には馴染みのない国だろう。もしかするとミスユニバースを何人も輩出する美女大国として知っている人の方が多いかもしれない。

そんなベネズエラでは、ここ数年『エル・システマ』という音楽育成プログラム発祥地として世界中の注目を浴びている。注目を浴びるきっかけとなったのは、「100年に1人の天才」「クラシック界のスーパースター」などと形容されるベネズエラ出身の指揮者、グスターボ・ドゥダメルの活躍である。20代前半にして、世界屈指のオーケストラから客演指揮者として招待され、26歳からスウェーデン国立管弦楽団エーテボリ響の主席指揮者、28歳からはロサンゼルス・フィルの音楽監督に就任し、現在まだたったの32歳である。エル・システマが生んだ天才として知られている人物だ。

エル・システマは、1975年に始まった教育プログラムで、子供たちに無料で楽器を貸し、本格的なオーケストラでの演奏活動を通じて他人との協調性や社会の規律を学ばせる手法だ。対象となる子供たちの70〜90%は貧困層の出身であり、エル・システマを取り入れた地域では、麻薬や犯罪に手を染める子供が激減。その効果は大きな話題を呼び、現在では日本を含め30以上の国と地域で導入されている。本書は、このベネズエラの奇跡と言われるエル・システマを紹介している。

1960年代のベネズエラでは、石油ブームの効果によって経済は潤い、文化や芸術が盛んになり、各地でオーケストラなどが創設されつつあった。ただ文化芸術はエリートや富裕層を対象としたもので、ベネズエラ人に対して音楽家への門戸は閉ざされたままだった。そんな自国の状況を憂いた音楽家で経済学者でもあるホセ・アントニオ・アブレウ博士は、若者を集め、ベネズエラ人で構成されるユース・オーケストラを創設する。練習場所として選んだのは、使われていないガレージ、これがエル・システマ誕生秘話である。偶然にも、スティーブ・ジョブスが家のガレージでAppleを作るのとほぼ同時期だ。

1976年、アブレウは、この新しく創設されたユース・オーケストラを結成から1年も経たない中で国際音楽祭へと参加させ、誰も想像しなかった快挙を成し遂げた。欧米・日本などの実力が確立されているオーケストラをさしおき、コンサートマスター含めほとんどのポジションでベネズエラ人が最優秀奏者として選出されたのだ。この快挙は世界中の注目と尊敬を集め、当時ベネズエラ大統領はアブレウの活動に予算を分配することを決定する。アブレフはその国家予算を使い、1980年代前半までに50を超える音楽教室を全国各地に誕生させ、音楽家への道が閉ざされていたベネズエラの若者に無料でオーケストラを体験させる活動をしていくのである。まさしくその恩恵を受けたのが、前述の1981年生まれの天才指揮者グスターボ・ドゥダメルである。

エル・システマの成功例であるドゥダメルはを現在ロサンゼルスで子供たちを指導している。他にもニューヨークやリオなど各地でエル・システマの教育法が広まりつつあり、日本では震災の被害を受けた相馬市でオーケストラの設立を目指している。アブレウのようなカリスマ抜きで同じ手法が根付くのか、世界中が見守っている状況だ。ちなみにエル・システマでは日本発の音楽教育法スズキ・メソードが取り入れられているという。もしかすると日本こそが次なる歴史の主役になれる土壌ある国なのかもしれない。

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ドゥダメルが指揮するシモン・ボリバル響の映像。卓越した演奏技術に加え、ラテンのリズムに乗って楽団員たちが踊るアンコールは、クラシック界の常識を覆したと言われている。しかも楽団員たちは皆30歳以下だ。

『医師は最善を尽くしているか』何が改善に繋がるのか

医師は最善を尽くしているか――医療現場の常識を変えた11のエピソード

医師は最善を尽くしているか――医療現場の常識を変えた11のエピソード

アフガニスタンイラク戦争。治安は未だ改善せず相変わらず散々たる状況であるが、医療の面では歴史的とも言える偉業が成し遂げられている。戦闘で負傷した兵士の死亡率が、これまでの実例と比べて大幅に改善しているのだ。第二次世界大戦が30%、朝鮮戦争は25%、ベトナム戦争は24%、湾岸戦争は24%の兵士が死亡しているなか、今回はたったの10%である。

朝鮮戦争以降、半世紀もの間ほとんど進歩がなかったこの分野において、今回米軍医療部隊はどのようにしてこの快挙を成し遂げたのか。前回の湾岸戦争と比べ、医療機器や医療技術の革新はほぼないし、今回の戦争では医療スタッフの確保に苦労していたくらいなので、新しいテクノロジーや軍医の才能が大幅な改善を生み出したとは言えない。では一体、何が偉業達成の鍵だったのか。

この快挙の秘密に迫るのは、現役の外科医、ハーバード医科大学教授、クリントン元米国大統領の上級アドバイザー、「ニューヨーカー」紙のライターと数々の肩書きを持つアトゥール・ガワンデ氏。2010年にTIME誌が選ぶ「世界でもっとも影響力のある100人」の一人でもある。オバマ現大統領を唸らせるような記事を今でも「ニューヨーカー」で書き続けている彼の洞察力は凄いが、それと同時に脱帽するのは、訳者があとがきで指摘する通り、読者を惹きつける文章のリズム感や臨場感である。一度読み始めると先が気になってページをめくる手が止まらなくなってしまう。

話が少しずれたので、米国医療チームの偉業に戻そう。医療チームが戦場で負傷した兵士の90%を救命するという驚くべき数字を残せた理由は、負傷兵士に対するシステマティックな対応だったそうである。今回の戦争では、兵士は負傷するとレベルに応じて四段階の効率的な治療を受けている。まずは衛生兵が応急手当。次に野戦病院での手当。その後、第三段階としてインフラの整った戦闘サポート病院へ搬送され、本格的な手術が行われる。3日以上入院が必要な重傷患者は、第四段階として、空軍の輸送機でドイツのラントシュトゥールにある病院へ輸送され治療されるのである。受傷からラントシュトゥールへの搬送にかかる時間はわずか36時間である。

本システムの特徴は、最前線の病院で患者を引き受け過ぎないで、余裕のある後方病院へできるだけ早く効率的に輸送することである。陳腐で当たり前のシステムに聞こえるが、これまでの戦争では、各レベルでの外科医が自分の手で自分の患者を再建させようとしがちであり、患者を手放したがらなかった。事実、アフガニスタン戦争の当初はラントシュトゥールへの搬送に平均192時間もかかっており、この時間を1/5以下に短縮させた効率的なシステムこそが、目を見張る成果に繋がったのである。

著者はこれを「パフォーマンスの科学」という。医療の進歩は新薬や新技術、医療機器の開発や普及に依っていると私たちは考えがちであるが、実は、今ある臨床のパフォーマンスを改善させた方がより多くの命を救うことにつながる。アフガニスタンイラク戦争では、医療チームは新技術の発見を待つことはせず、戦傷者治療の方法論を改善させていったのである。本書では、科学技術の進歩を待つだけでなく、与えられた現場で最善を尽くすことで医療を変革しているエピソードを上述の例の他に10紹介している。

各エピソードを読むにつれ、本書で紹介されているのは、医療・医学の分野だけでなく、あらゆる業界に通用する汎用性のある話ばかりであることに読者は気付くだろう。本書の第三部では、素晴らしい知識と技術を備えた医師であっても二流の結果しか出せていない事例を紹介しているが、あなたの周りでも見覚えのある事例なはずだ。医師に限らず、私たちも日々、組織・金銭コスト・システム・同僚・家族など、さまざまな要素が混在する中で最善の結果を残したいと考えている。本書にはそのためのヒントがいっぱい詰まっているのである。

『太陽 大異変』

太陽 大異変 スーパーフレアが地球を襲う日 (朝日新書)

太陽 大異変 スーパーフレアが地球を襲う日 (朝日新書)

1989年3月13日、カナダのケベック州で大停電が起こった。変電所や発電所が突如破壊され、9時間も停電続いたのだ。被害に遭ったのは、およそ600万人、経済的な損害は100億円を超えた。そして不気味にも同時に全米一帯を覆い尽くすようにオーロラが発生したのである。

当時、冷戦の真っ只中であったため、多くの人々は核攻撃が始まったと心配したそうだ。しかし、この大停電をもたらした真犯人は太陽だったことが後々判明する。太陽面での爆発(太陽フレア)によって発生した大量のプラズマが地球に到来し、変電所の許容範囲を超える大電流が流れたため、停電が起こったのである。この動画(出典:NASA/ Walt Feimer)を観てもらえれば、なんとなく、とてつもないことが起こったことが分かるだろう。

最近、1989年に起こったフレアの数1000倍もの規模のスーパーフレアが太陽で起こる可能性が著者含む日本の研究者たちによって示唆された(というか論文が発表されたのは2013年6月なので本稿の2ヶ月前)。万が一、太陽でスーパーフレアが起きた場合、想像を絶する量のプラズマやX線放射が地球に到達することになり、多くの人々が被爆し、地球全体で通信障害や大停電が発生してしまうだろう。そうなれば世界中の原子力発電所の電源が喪失され、制御できなくなってしまうという恐ろしい事態に発展しかねない。

理論的には1000年に一度くらいの頻度でこのスーパーフレアが発生するといわれており、実際に屋久杉の年輪を調べる研究者らは、約1300年前の年輪にスーパーフレアの影響らしき跡を見つけている。スーパーフレアは、過去の生物大量絶滅をもたらした容疑者候補としても考えられており、古生物学者たちが因果関係を調べ始めたところだ。

ともあれ、本書は警告の書などではなく、太陽研究の中でもこれまであまり焦点が浴びてこなかった太陽フレアの仕組みをしっかり説明してくれる良書である。著者は宇宙物理学者で、京大理学研究科附属天文台長の柴田一成氏。前著『太陽の科学』は、本好きならビビっとくるであろう『渋滞学』『ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ』『チェンジング・ブルー』などと同じく、講談社科学出版賞受賞おり、最新の研究をバランス良く分かりやすく説明してくれる宇宙物理学者である。なお、本書では太陽フレアの解説に留まらず、磁気に基づいた宇宙理論を展開しており、アインシュタイン一般相対性理論など重力に基づく宇宙論に飽きてきたサイエンスファンにもオススメできる内容である。

もちろん、近年注目を集めている黒点に関しても一章割いて説明し、そのメカニズムから最新の動向を解説してくれている。近年、徐々に話題になりつつある黒点数の低下にも触れている。現在の太陽では黒点数が少ない時期が長く続いており、地球寒冷化が心配されているのだ。もし本当に寒冷化が進むのであれば、マウンダー極小期(1640〜1710年ごろ)と同じく、農作物の不作が続いたり、感染症が拡大したりする可能性があり、温暖化対策以上の国際政治経済問題に発展するだろう。

随所に薀蓄が散りばめられているのも本書のウリだ。例えば、太陽を表す「日」という漢字の真ん中の棒は、もともとは点であり、太陽に写る黒い物体、つまりは黒点を表していたそうだ。しかし、漢字を生んだ古代中国では黒点という概念がまだなく、その黒い物体は太陽を横切って飛ぶ「カラス」だと思われていたようである。これが後に日本に渡って「八咫烏」になる。サッカー日本代表がユニフォームにつけているシンボルマークは、もとは黒点だったと知れば、ちょっとは酒のネタになる!?

著者は、2005年から、太陽活動に伴う地球周辺の宇宙環境の変化を予測する「宇宙天気予報」のプロジェクトのリーダーを務めているそうだ。太陽フレアやそれに伴う太陽風などの影響をコンピューターシミュレーションを用いてモデル化し、太陽フレアが起こった際に地球上のどの地域で大きな被害が出るかを予測できるようにするという。この研究が順調に進めば、いつか発生するスーパーフレアに準備するため、社会インフラは抜本的な工事を行うようになり、莫大なお金が動きそうである。うーん、こんなところに金の卵があったとは。

『ローカル線で地域を元気にする方法』

いすみ鉄道。この名前を聞いて、ピンときた人はよほどマニアックな人だろう。地方第三セクター立て直し事例として話題のローカル鉄道でありながら、まだ一部の専門雑誌などで紹介されるだけで、大手メディアはあまり取りあげきれていない。この鉄道の再生物語から、地方や中小企業が学べることは多く、注目に値するのでそろそろ取りあげられそうだ。

本書の著者は、千葉県を走るローカル線いすみ鉄道代表取締役社長、鳥塚亮 氏。要チェック人物である。大胆な改革を次々と打ち出し、1988年創業以来赤字経営であったローカル路線を黒字化に成功させ、今や鉄道業界が注目する異端児経営者だ。老舗旅館を見事に再生させた星野リゾート星野佳路社長を彷彿とさせる。

ローカル鉄道社長というと、鉄道業界叩き上げの堅物が就任するポジションかお役所の天下り先という勝手な先入観があるが、鳥塚氏の場合、前職はイギリスの航空会社ブリティッシュ・エアウェイズの旅客運行部長という異色の経歴の持ち主。2009年に実施された いすみ鉄道 社長公募人事で選出され、高給を捨てての転職・社長就任である。社長就任後は「今までと違ったやり方」を実践し、それまで赤字垂れ流しのお荷物路線であった いすみ鉄道 を再生させ、業界で注目を浴びている。

そんな いすみ鉄道 公募社長が行った「今までと違ったやり方」を本書は紹介する。そのいくつかをピックアップしてみよう。まず彼がが いすみ鉄道 の売りにしたのは、沿線に大型の観光施設などが「何もない」こと(え?)。観光地でもないし風光明媚でもないことを逆手にとって、「何もありません。でもよいところです」と大真面目に言っている。「えー、そんなのありかよ、そんなとこ誰も行くわけないじゃん」と内心突っ込みながら読み進めていくと、意外な結末が。

これが意外に反響を呼びました。「なにもないのがとてもいいですね」と言ってくれる人が増え始めたのです。

「ない」を逆手にとって、何もないに価値を見出す少数派を相手にしたビジネスを展開し、ガイドブックに書かれていないようなところを探し求める旅人たちを獲得していったのである。脱帽。

次に彼が実施したのは、「運転士自費公募」制度。鉄道運転士になりたい社会人に訓練費700万円を自己負担してもらい運転士になれる機会を提供する事業だ。当初は応募者がいるのか疑問の声があったそうだが(そりゃそうだ)、なんと全国から80名以上が応募し(え!)、今や5名の運転士を輩出している。現役運転士の定年退職が迫る中、職業意識の高い新人運転士を必要最小限の育成費で確保することに成功しているのである。二脱帽。

その他にも、「電車乗らなくてもいいですよ、お土産だけ買って頂ければ」や「駅まで電車でなく車で来てくれていいですよ」と顧客に言い放ち、旧来型の鉄道マンたちを怒らせる。人を運ぶのを生き甲斐とする彼らにとって「電車に乗らなくていい」などと言うことは御法度だ。もちろん堅物鉄道マンたちを怒らせることが彼の目的ではない。彼の意図は、いすみ鉄道を訪れるハードルをうんと低くし、潜在顧客に一度足を運んでもらった上で、次へのリピート需要に繋げていくというもの。実績が出ているというから、これまた脱帽。

いずみ鉄道の目玉列車はムーミン列車。ポケモン列車でなくムーミン列車なのにもちゃんと理由がある。社長の妻がムーミン好きというのも少なからず影響しているようであるが、要は、行動力あり家庭の財布を握る30代〜50代の女性をターゲットにしているのである。

そろそろこの辺で勘のいい方は既にお気づきかもしれない。そう、この公募社長が行っているは、ローカル鉄道事業にマーケティング戦略を導入すること。「ブルーオーシャン戦略」や「経験価値マーケティング」「リテンション・マーケティング」など、様々なマーケティング戦略を駆使しているのである。いやはや、さすが外資企業で働いてた人、普通の鉄道マンが思いつかない施策を次々と実行してく。いわゆる凄腕経営者だ。

さあ、さぞかし凛々しい風貌なんだろう、と「いすみ鉄道 社長」をググってみると、なんとも愛想の良さそうな鉄道係員さん風の顔があらわれる(失礼!)。いすみ鉄道 社長ブログ も面白い内容満載だし、実は いすみ鉄道 に人が集まるのはこの公募社長に会いにいっているのではと勘ぐってしまうくらいだ。

何はともあれ、本書はコアなファン層に向けた本かと思いきや、地域復興の教科書にもなるし、マーケティング実務本にもなるし、将来の人生設計に悩むおじさま・若者への指針本にもなり、汎用性はほんと高い。なんだか彼の巧みなマーケティングに騙されている気がしないでもないが、面白いのは間違いない!

『マヨラナ』

マヨラナ 消えた天才物理学者を追う

マヨラナ 消えた天才物理学者を追う

1938年、一人の天才物理学者が謎の失踪を遂げた。まだ31歳の若さながらすでに国際的に名の知れた優秀な核物理学者が、イタリア・シチリア島パレルモからナポリ行きの船に乗り、それっきり消息を絶ったのだ。遺書らしきものは残されていたが、遺体は収容されなかったうえに、以後数十年にわたってあちこちから目撃証言が出続けており、その消息は未だ謎である。もし本当に生きていることが分かればノーベル物理賞が授与されてもおかしくない人物である。

彼の名はエットーレ・マヨラナ。粒子がそれ自身の反粒子でもあるという奇妙な粒子の存在を考案し(彼の名をとってマヨラナ粒子と呼ばれる)、当時未知の粒子だったニュートリノのモデルとして提唱した理論物理学者である。マヨラナ粒子は、彼が考案して以来70年以上自然界に存在することは確認されてこなかったが、2012年、遂にその存在が発見・確認され、彼の理論の正しさは立証された。次はニュートリノマヨラナ粒子かどうかというのが現代素粒子物理学の大きなテーマである。

現代物理学の基礎を70年以上前に、それも若干30歳にて構築した天才的物理学者はどんな人間だったのか、そして彼は何故に失踪したのかという謎に迫るのが本書である。どんな分野でも天才の話は鉄板ネタであり、読んでいて面白い。エットーレ・マヨラナも類に漏れず、その逸話は明らかに常軌を逸している。物理学者についての話だが、物理好きも、そうでない人も楽しめる内容だ。

彼は、20代前半にして「0と3の間のコサインxの指数積分は?」という現代ではコンピューターにやらせる計算を暗算で一瞬のうちに答えるほどの実力を持ち、中性子ニュートリノ・核力・放射能といった当時最高級の頭脳が悩んでいた問題に次々と説明を与えていくのである。それも考えだした理論を煙草の箱に走り書きしては、最後の一本を取り出すとともに、握りつぶした箱ごと捨ててしまう。それを見て憤怒する同僚を横目に「発表してどうするんだ?こんなもの子供の遊びじゃないか」と言い捨てるのである。しかも煙草の箱に殴り書きしていた理論は、ニュートリノパリティ対称性を破る性質など、どれもノーベル賞を受け取れるような理論である。彼の才能に誰もが戦慄を覚えたのは言うまでもない。

本書を「彼のように天才的な人物をどうやったら育てられるのか?」という視点で読んでも全く意味はない。彼は幼少時代から天才であり、一般人が学べることは一切ない。彼の天才っぷりを目の当たりにすると、彼から何かを学ぼうという願望は読了後には完全に消え去ることになるだろう。著者が本書で書いているように、天才とは不可思議なものであり、ほとんど事故のようなものなのである。

そんな世紀の天才はあるとき突然と鬱になり、社会との繋がりを切断する。そして彼を慕って連絡をとりにきた同僚のアマルディ(最近話題が多いCERN設立に尽力した人物)に放ったのがこの一言だ、「物理学は間違った道を進んでいる、われわれはみな間違った道を進んでいる」。発言の真意は今となってはよく分からないが、紐理論や超対称性など複雑な理論が乱立する今の物理学を言い当てていたのかもしれない(もしくは、彼の同僚がその後原子爆弾原子力発電所に使用される遅い中性子の研究をしていたことを憂いていたのかもしれない)。そしてその発言の数年後、彼は忽然と姿を消したのである。

本書は、この知られざる天才物理学者エットーレ・マヨラナの短い生涯と業績を、もう一人の型破りな若き物理学者がユーモア交えて面白おかしく書き記している。著者のジョアオ・マゲイジョは、ケンブリッジ大学で博士号を取得し、現在はイギリス版MITであるインペリアル・カレッジの教授という理論物理学の王道を突き進む男だ。ただその経歴と提唱する理論から、奇才として知られている。

ジョアオ・マゲイジョは、7歳の時に教会学校で先生のケツをつねって放校となり、11歳の時にアインシュタインの『物理学はいかに創られたか』という本を読んで物理学にのめり込む。名門校に入学するが、15歳の時に学校教育の偽善について過激なレポートを書いて退学。その後、独学で勉強を進め、ケンブリッジ大学の博士号を取得しているのだ。

研究者になってからは、「真空中の光速は一定」という前提に基づいたアインシュタイン相対性理論に異議を申し立て、「光速は速くなる」という光速変動理論なる大胆なアイデアを世に出した異端児である。こんな奇才が書く伝記が当たり障りのない普通の伝記になるはずがない。そして驚くべきは彼の文才である。物理学者ならではのロジカルさはもちろん、リズム感があり、解説が分かりやすく、ユーモアに飛んでいる。物理学者が書いた文章とは到底思えない。

天才の伝記を天才が書くとこうも面白いのか、と気付かされる一冊だ。

『なぜ人間は泳ぐのか』

なぜ人間は泳ぐのか?――水泳をめぐる歴史、現在、未来 (ヒストリカル・スタディーズ)

なぜ人間は泳ぐのか?――水泳をめぐる歴史、現在、未来 (ヒストリカル・スタディーズ)

英雑誌The Economistが2012年Book of The Yearとして選定した本が翻訳された。本書は、2012年に出版されるやいなや、The Economistだけでなく、New York TimesやWashington Postなどの名だたる全国紙・雑誌により絶賛された本である。

ABC Newsの記者を30年以上務めた著者の挑戦から本書はスタートする。70歳を直前に控えた彼女は、トルコ西部にありヨーロッパとアジアを分かつ水の回廊、ヘレスポントス海峡を泳いで渡ろうとする。ヘレスポントス海峡と言えば、数々の神話が生まれた地であり、あまたの戦の部隊となった歴史的な海峡である。とても魅力的な場所に聞こえるが、泳ぐべき距離は6,500mもあり、複雑な海流やクラゲなどの生物が彼女の前に立ちはだかる。ヒェー、そんな距離を69歳のおばあちゃん(失礼!)が泳ぐなんて、驚くと同時に勇気づけられるドキュメンタリーだ。

それにしてもなぜ彼女は船で楽々渡れる海峡をわざわざ泳いで渡るのか、彼女だけでなくなぜ人々は忙しい日々の中でなんとかプールに通おうとするのか。本書は、彼女がみごと完泳を収める過程をユーモアとスリルたっぷりに描くと同時に、タイトルでもある「なぜ人間は泳ぐのか?」に関して、生物の進化と水の関係、水泳の歴史、水泳の科学、生理学、心理学などさまざまな方向から探究していく。

例えば、第二章では、水泳の歴史を紐解く。古代ではごく普通に行われていた「泳ぐ」という行為は、中世になるといったんほぼ完全に地上から消え失せ、やがてルネッサンスの夜明けとともに復活する。その後、世界中を航海する探検家たちが描写したアフリカ人たちのたくましい水泳話が、ヨーロッパ人を魅了し、水泳の流行に火をつけ、現在に至るのである。ちなみに今では当たり前のクロールという泳ぎ方が登場するのは1844年まで待たなければならない。未探検地のアメリカ西部を旅していた画家がアメリカ先住民の泳ぎ方を雑誌で紹介したのが始まりだったそうだ。水泳ブームの火付け役であるアフリカ人やアメリカ先住民が、現代では「カナヅチ」として偏見の目で見られているのはなんとも皮肉な歴史である。

第三章では、水泳の科学を紹介する。水泳は体の線をなめらかにし脂肪を燃焼させるが、体重減少には直接役立たない、という研究結果や、意思決定能力や決断時の反応時間に反映される作業記憶容量について、スイマーは加齢による減少がより少ない、といった最新の研究成果が紹介されており、目から鱗である。古生物学者がCGモデルを通してキリンが泳げるかどうかを検証するお遊びのような研究も紹介されており、遊び心も満載だ(結論が知りたい方は本書の66ページへ!)。

水泳の技術論やトレーニング論を紹介する本はいくらでもあるが、その歴史や科学に焦点をあてた本はなかなかなく、その点が本書をユニークにする。そろそろ水泳のシーズン、本書を読んでトリビア武装するのに最適な時期である。ビキニの名前はビキニ環礁での原爆実験になぞらえたということが説明できたらちょっと会話がはずむかも!?

『インターネットを探して』

インターネットを探して

インターネットを探して

インターネット。とても身近な単語だが漠然としており、具体的に何を指しているのかはよく分からない。テクノロジー雑誌『Wired』の記者である著者でさえも、とある事件が起こる前まではその単語が何を差すのかを正確に把握できていなかったほどである。

「お宅のインターネットが接続できなくなったのは、リスが裏庭にあるケーブルをかじってしまったからです」、修理員にそう告げられた著者は愕然とする。地球上のどことでも瞬時に繋がれる人類史上もっとも強力な情報ネットワークが、リスの出っ歯でかじられただけで不調になってしまったのである。一般人にとっては「あー、そうですか。じゃあ直しておいて下さい」で終わる話であるが、テクノロジー雑誌記者の取材根性スイッチを入れるには十分であった。

早速彼は、自宅の裏庭のケーブルが繋がっている先を自分の目で確かめるため、世界中を飛び回ることを決意する。あるときはアメリカの片田舎にあるFacebookのデータセンターを、あるときはフランクフルト・ロンドン・アムステルダムといった巨大インターネット相互接続点を、そしてとある時にはロンドンから続く1万4000kmもの海底ケーブルの終着点である南アフリカのケーブル上陸地点を訪れていく。

本書はインターネットの物理インフラを巡るルポタージュであり、読者をインターネットの実体へと招待する希有な一冊である。「クラウド」や「無線」という単語を日頃使っていると、あたかもインターネットは実体のない仮想空間のような錯覚に陥るが、本書を読むと実際はケーブルの集合体であることが良く分かる。東京からアメリカの友人に送るE-mailは、無線でピュンと相手まで送られるのではなく、太平洋に沈む海底ケーブルを辿ってアメリカ大陸に送られていくのである。インターネットは形ある実体なのだ。

著者が取材する場所はどれも現代社会にとって重要な場所である。よくここまでインターネットの実体を赤裸々に書けるな、と思いながら読み進めていくと、やっぱり書いてあった。著者が現場視察やインタビューをしていく中で、「セキュリティー上、この場所の存在を開示するのは問題」と疑問を呈されている場面だ。2007年に逮捕されたアルカイダ集団はテロの標的としてロンドンのインターネット相互接続点を狙っていたほどである。本書にて紹介されている場所は現代社会にとってかけがいのない秘境なのだ。

紹介されている秘境の中で一番興味深いのは、インターネット相互接続点だろう。数えきれない程のデータが接続される場所であり、ここで各データはどこにいくべきかを振り分けられる。言うならば、コンテナが積み上げられる大きな港のような場所であり、人体でいう心臓部分だ。そこの中心部には何が存在するのか。著者はそのブラックボックス化されていたインターネットの中心部を見たとたん、はっと息を呑む。著者が目にしたものとは何だったのか、本書を読んでからのお楽しみである。